禅語 安心(あんじん)とは?
『安心』という言葉を聞くと、多くの人は「ホッとすること」「心が落ち着くこと」を思い浮かべると思います。
でも、禅の世界で使われる「安心」は、ただ気持ちが安心するという意味だけではありません。
禅語の「安心」とは、
どんな時やどんな場所でも、ぶれない心・ゆさぶられない心を自分の中に持っていること
を指します。
雨が降っても、友だちとケンカしても、テストがうまくいかなくても、心の真ん中に一本の大きな柱が立っているように、気持ちをどっしり構えておきます。
その柱がグラグラしない状態を「安心」といいます。
「安心」を外に求めない、自分の中にある
私たちはよく、安心できる理由を外に求めようとします。
【例えば1】
周りの友だちもテストの点数が悪かった、だから自分の点数が悪くても安心した。
自分の間違ったところを復習しよう。周りの点数を気にせず自分に集中します。
【例えば2】
明日、部活の試合や発表会の前にうまく出来るかどうか不安になる。
やれるだけの練習はした。あとは、明日の準備をしっかりしてカラダを休めておこう。
他人や周りに左右されず、自分に意識を向けましょう。意識するうちに周りにまどわされない心が身についてきます。
安心は、外の出来事でつくられるものではなく、あなたの心の中に元々ある。
雨の日でも晴れの日でも空がそこにあるように、
心がざわざわしていても静かでも、「安心の場所」は心の奥にちゃんとあります。
ただ、忙しかったりイライラしたりしていると、その場所を見失ってしまうだけなのです。
日常で使える「安心」の考え方
子どもでも大人でも、心がザワッと揺れる落ち着かない場面が出てきます。
そんなとき、禅語の「安心」はこう考えます。
失敗したとき
◆「失敗しても、自分の価値は減らないよ」
◆「自分のできない部分、わからない部分に気づけた。経験になった」
友だち・家族と言い争い(ケンカ)してしまった
◆「自分が悪い、言い過ぎたと思ったらその気持ちを相手に素直に伝えよう」
◆「すぐに解決できなくても、あなたの心の軸はあなた次第。今を丁寧に生きよう。」
未来が不安なとき
◆「まだ来ていないものにおびえるより、今できる一歩を大切に」
◆「過去の後悔・未来の不安よりも大切なのは今、今を一生懸命やることがとても大切」
このように「安心」は、心の居場所を見つける力として働きます。
禅における「安心」とは?
不安で不安でどうしようもないと相談されたお坊さんが言いました。
「まず、その不安をここに持ってきて下さい」と
当然、不安に形はありません。そこで、相談した者は気づきます。
不安は形のない自分が作り出したものだということを。
禅僧たちが言う最終的な「安心」は、
自分はこのままで、すでに大丈夫なんだという深い気づきです。
テストの点も、仕事の成果も、人からの評価も関係ない。
私たちは、生きているだけで十分に存在価値がある。
その事実に気づいたとき、心は揺れなくなります。
人生のどんな波が来ても、今あるもの・今を大切にする気持ちを持ち続ければ、不安な気持ちもおのずと消えてしまうことでしょう。

